キサー・ゴータミー

投稿者: | 2020年8月19日

インドの言葉で「キサー」は不憫。「ゴータミー」は女性の名前。ゴータミーは子供を授かった。元気に成長していたが、かわいい盛りに突然病気になり亡くなってしまった。

ゴータミーはその現実が受け容れられず、心のバランスを崩してしまった。亡くなったその子を抱いて街ゆく人に声をかける。「この子の病気を診てください。薬をください」と。しかし一目見てその子は亡くなっていることがわかるので、誰も答える人はなかった。

今、近くにお釈迦様が来ていらっしゃると耳にして、ゴータミーはお釈迦様に会いに行った。お釈迦様にも同じことを尋ねる。するとお釈迦様はこう答えた。「街へ戻って家々を訪ね、その子のためにケシの身をもらってきなさい」と。

ケシの実はおなかの薬。インドは暑い気候なので、食あたり水あたりは日常のこと。ゆえにケシの実は家庭の常備薬なのであった。お釈迦様は続ける「ただし、今まで家族を亡くしていない人からもらいなさい。だれか家族を亡くした人からもらってはならない」と。

早速ゴータミーは街へ戻り、家から家を訪ねて回る。「おたくにケシの実はありますか」「ありますよ」「では、どなたかご家族を亡くしたことがありますか」「何年前に祖父が、何年前には祖母が」…

どの家にも常備薬なのでケシの実はあったが、どの家も「父が母が」「夫が妻が」「子どもが孫が」と。ゴータミーは結局一粒も得ることなくお釈迦様のもとに戻った。

「一粒も得ることができませんでした」と告げたとき、ゴータミーに悟るものがあった。考えてみれば当然のこと。だれだって親があれば祖父母もあり曾祖父母もある。家族を亡くしたことがない人など、この世に一人とているはずがない。目の前に見える家族にしても、2500年前のインドのこと、直系傍系大人数の大家族で誰も亡くなった人がいない家など皆無に等しいだろう。

ゴータミーはその子の葬儀を勤め、直ちにお釈迦様の弟子になった。お釈迦様は「たとえ百年生きても、空しい百年ならば果たしていかがなものか。たとえ短い一生であっても手ごたえのある日々を重ねたならば、どれほど豊かな一生であろうか」とゴータミーに告げたという。

(住職の脚色大盛)

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