善行寺の如来と天然痘

投稿者: | 2020年6月10日

 2500年前、インドの欲深い大金持ちの長者は一人娘の重病を機にお釈迦様の教えを乞いました。
 「この苦しみをお救い下さい」という長者の求めに、お釈迦様は「今までの罪を悔い改めて西方浄土の阿弥陀仏の御名(みな)を称えなさい」とお勧めになりました。
 長者が「南無阿弥陀仏」と称えると阿弥陀如来は一尺五寸のお姿となって、両脇に観音・勢至菩薩を従えて現れました。
 長者は今までの不信心を恥じ、心を改めてお釈迦様のお弟子になりました。お釈迦様は喜んで自らも光明を放つと、不思議なことに阿弥陀三尊は生身の如来としてのお姿となりました。これが善行寺如来のご出現と言われます。
 この如来様はインドでの500年の衆生済度の後、百済の国にわたって1000年もの間人々を救い導いていました。
 百済の聖明王のとき「日本に行って衆生を済度せん」とのお告げに国王臣下民衆はお止まり願ったということですが、仏勅となれば致し方なく、船にお乗せして惜別の涙とともに港でお別れしたといいます。
 その船は欽明天皇13年(552)年、摂津(大阪)難波の港に到着されました。使者より仏法の深遠なることを聞いた天皇は、臣下にお受けすべきか否かを問いかけます。
 当時は蘇我氏と物部氏が勢力を争っていた時代。蘇我稲目は「異国で殊勝に尊敬されていたもので、我が国でも尊崇すべき」と主張し、一方で物部尾輿は「この外国の神を祀れば、日本の神々の怒りに触れて災いが起こる」と反対します。
 天皇は蘇我稲目にこの仏を預け、稲目は「向原寺」を興して毎日礼拝していました。ところが後に疫病(天然痘)が流行し、人々は苦しみ多くの死人が出ました。
 物部尾輿は子の守屋と共に「この病は外国の神を祀った祟りによるものだ」と、向原寺を焼き払います。
 しかし阿弥陀三尊像は猛火の中にあっても少しも威容を損することなく、明々と光明を放たれます。そこで守屋は「火に焼けぬなら水に沈めよ」と命じて、難波の浦に投げ込ませました。
 その後、欽明天皇は亡くなり物部尾輿は病死。そして蘇我馬子は聖徳太子と共に守屋を攻めて物部氏は滅亡しました。
 推古天皇10年(602)信濃の国の本田善光・善佐父子は、都の御用の後難波に差し掛かると水中から阿弥陀仏の声を聞きます。「我を連れて郷国に帰れ、汝と共に衆生を済度しよう」と。善光父子は阿弥陀如来を背に負うて信濃国に帰り、善光寺を興したということです。
 親鸞聖人はこのことを『和讃』に著わしています。親鸞聖人は「仏」を「ほとけ」と読みません。「ぶつ」と読みます。理由はこの一連の事件が背景になっています。
 守屋は阿弥陀仏が来た時に疫病(天然痘)が流行ったので、「この病気は外国の神が来たのが理由だ」と、阿弥陀仏の名も知らず「ほとほり(熱)け(病)=熱病」=「ほとけ」と言ったのだと親鸞聖人は詠みます。
 きっとこの時の流行病(天然痘)は国際的エピデミックあるいはパンデミックだったのだと思います。その後度々の流行を経て1980年に天然痘は世界的に完全に撲滅されました。
 新型コロナウイルスは昨年今年のパンデミックを経て、これからもずっと大小の波を繰り返しつつ、人類と共存していくのでしょう。
 長いスパンで抗戦しなければならないのかもしれません。

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