人身受け難し 今すでに受く

投稿者: | 2020年1月27日

 インドにはガンジス川という大河が流れる。世界の屋根ヒマラヤを水源とし、河口はベンガル湾に広がる世界最大規模のデルタ地帯だ。
 お釈迦さまがいらっしゃったのはその中流あたり。雨季には満々と水が流れる一方、乾季になると中央にわずかな水の筋が残り、あとは見渡す限り砂漠のような河原になる。
 お釈迦さまには、いつもそばで説法を聞いていたアーナンダという弟子があった。ある日お釈迦さまはアーナンダとふたり、この砂漠のようなガンジスの河原に立っていた。
 お釈迦さまは尋ねる。「アーナンダよ、足元の河原の砂を手のひらにすくってみなさい。」アーナンダがその通りにすると「手のひらの砂粒と河原の砂粒はどちらが多いか」と。
 アーナンダは答える。「比べる必要はありません。手のひらの砂は極々わずかなものです。」
 「その通りだ。この河原の砂の数はこの世のあらゆるいのちの数だ。地上にはけもの、地中には虫、空には鳥、水中には魚。無尽蔵のいのちの数なのだ。その中で、手のひらにすくわれた砂の数は、人間として生まれたものの数だと思ってみなさい。だから人として生まれたことは、生まれ難い中を、稀な縁が結ばれて生まれてきたのだ。人身受け難い中をすでに受けていることの値打ちを、手のひらの砂を見て考えてみなさい。」
 さらに続けて「では今度は手のひらの砂から指の爪の上に砂を乗せてみなさい。どちらが多いか。」「これも比べる必要はありません。爪の上に乗った砂は数粒です。」
 「その通りだ。せっかく受け難い人の身を受けているにもかかわらず、多くの者はその価値に気付きもしない。爪の上に乗るほどの数粒の者がその価値に気付き、それを喜ぶ者であるだろう。仏法は人としてこの身を受けたことを喜んでいく教えだ。聞き難い仏法を聞き得たことを、爪の上の砂を見て考えてみなさい。」
 「仏法聞き難し、今すでに聞く。」受け難き身を受け、聞き難き仏法を聞くことができているその値打ち。
 教えられなければ気付きもしない、我が身の幸なのである。

※雑阿含経や涅槃経に見られる逸話をまとめてみました。砂をすくったのは釈尊であったり、砂ではなくて土であったり、手ではなくて足の指だったり、河原でなくて祇園精舎であったりします。

 

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