『村の地蔵』(宇野浩二)という物語がある。あらすじを紹介すると…
昔ある村に、どこからともなく一人の年取った坊さんがやってきて、村の西の野原に「きかぬ地蔵」、東の山の上に「きく地蔵」を安置した。村の人たちに「勝手に信心するがいい。しかし最近『きく地蔵』より『きかぬ地蔵』に参るのがいいと分かってきたので、野原には参道も付けておこう」と言って去って行った。
しかし年月がたつと次第にその道はなくなり、道なき山の上の「きく地蔵」の方には沢山の人々がお参りするようになり、立派な参道ができてきた。どんな難しい願いもすべてかなえてくれた。「病気が治るように」「金が入るように」「男の子が生まれますように」とか…。それで、みな達者で健康、金持ちで幸せになった。競い合って立派な家を建てた。
そのうち、「誰よりも金持ちになりたい、幸せになりたい」と思う者が出てきた。「隣の皆が病気になりますように」「貧乏になりますように」「怪我をしますように」と競い合ってお願いするようなってきた。ことごとくその願いがかなうので、みな病気で貧乏、怪我人ばかりになって、よその村の人も気味悪く思い、誰も近寄らない村になった。
そこにあの坊さんが通りかかり、「きく地蔵はやめてきかぬ地蔵に参りなさい」と。村の人たちは目が覚めた。いつの間にか無くなった野原の参道の草を刈り、「きかぬ地蔵」に参るようになった。身勝手なお願いをすることは無くなった。それから皆一生懸命働くようになり、もとの村が取り戻されていった。
…以上あらすじ。
宗教心の表層は身勝手な膜に覆われている。殊勝な心も裏を返せば煩悩が見え隠れしているのだ。「家内安全」「無病息災」は自身や身近な者に対してであって、「家外」ではない。受験シーズンになると繁盛する宗教施設があるが、「自分が合格すれば誰かが落ちる」ことに光を当てることはない。このような身勝手さは誰もが持っている心だから否定しても仕方ない。
「きく地蔵」の表層を破り、奥底の「きかぬ地蔵」を掘り起こしていきたいものだ。