平成5年発行『浄土の真宗』を転載 日豊教区教化委員会発行 同カリキュラム検討委員会編纂
私たちの教団 | お内仏と法名 | 聞法の生活
■ はじめに |
いま、時代は科学技術に大きな信頼をよせています。しかし、そのみせかけの豊さの中で人は「こころの時代」ということを言いはじめて久しくなります。いろんな宗教が人の「こころ」をひきつけ、その一方では社会問題化することもあります。これから先もいろんな宗教がいろんなかたちをとって出現してくると思われます。そのような宗教環境の中にあって、私たちは「浄土真宗」をそれぞれのご縁によって選び「真宗門徒」を名のっています。しかし、実はその私たちの選びに先き立って、仏さまから私たちは、永いあいだ深く願い続けられているのです。親鸞聖人はそのことを「浄土の真宗」と示されたのです。そのおしえに依って生きるとき、私たちは本当に尊いものに出あい、そしてそこに新しい人生の道が開かれてくるのであります。 ▲目次へ戻る |
■ ご本尊 |
人生で本当に大切なものは何でしょうか。お金であったり、仕事であったり、ときには健康であったり、若さであったり、また愛情であったりもします。しかし、それらは私たちのおかれた状況によっていつも変わってしまいます。いつ、いかなるときも、私たちの人生の全体をとおして、本当に大切なものに出あうことによって、私たちはその人生の豊さを確かなものにすることができます。その本当に大切なものを「本尊」と言います。「本尊」とは「本当に尊いこと」という意味です。真宗のご本尊は『南無阿弥陀仏』であります。この仏さまは、私たちが見失っている、あらゆる世界、あらゆる存在の、いのちの輝きとあたたかさを明らかにし、与えられた人生をいきいきと生きてほしいと願い続けておられます。本来、『南無阿弥陀仏』という仏さまは、色もなく形もないのですが、私たちに、その願いとはたらきに出あってはしいと、「すがた」をとられたのが名号や絵像や木像であります。そのご本尊の願いにうなずいて、念仏申す身になりたいものです。 ▲目次へ戻る |
■ 釈尊の教えと伝統 |
○お釈迦さまのさとり お釈迦さま(釈尊)は、私たちが日常望んでいる幸せの条件に、充分満たされた環境にお生まれになりました。しかし誰もがかかえる生老病死という、いのちの空しい事実に深く悩まれました。そして出家され、自分自身の内にはたらく、ものごとの道理を引き受けることのできない壁(煩悩)、それが空しさの原因であり、そういう自分を明らかにし続ける真実のはたらきが『南無阿弥陀仏』であるとさとられ、苦悩から解放される「法」(真実の道理)を明らかにされました。そしてその「法」をひとびとの環境やいきざまに応じて説かれました。そのおしえが現在の数多くの経典となり、やがてインドから中国に伝えられ漢文に訳され、そして日本に伝えられました。 ○浄土の三部経 永い仏教の歴史の中で、さまざまな経典が説かれてきました。それらの経典は、阿弥陀仏の本願にたって、さまざまな課題に応じて説かれています。その阿弥陀仏の本願を明らかにしているのが浄土の三部経です。 『仏説無量寿経』 阿弥陀仏はすべてのひとびとを救うために、48の本願を起こされました。その本願の世界を「浄土」として明らかにし、そしてその浄土に生まれる道として、「念仏」が説かれています。 『仏説観無量寿経』 お釈迦さまが在世のとき、インドの王舎城でおこった事件をとおして説かれています。父の王位を奪おうとした王子阿闍世(あじゃせ)の反逆を縁として、苦悩する母、韋提希(いだいけ)夫人が阿弥陀仏の本願に出あい、念仏を称える身となって救われていく道すじが説かれています。それは同時に私たちが凡夫として救われていくおしえであります。 『仏説阿弥陀経』 お釈迦さまが、お弟子の舎利弗(しゃりほつ)にひたすら本願の真実を説かれています。そして多くの仏たちが、阿弥陀仏とその浄土をほめたたえ、私たちに念仏をすすめておられるすがたが、くりかえし説かれています。 ○七高僧 親鸞聖人は、お釈迦さまの説かれた本願のおしえによって、その時代時代の課題に生きられた代表的な7人の高僧によって、念仏の伝統とその信心を明らかにされました。その7人の高僧とは、 インドの、龍樹菩薩・天親菩薩 中国の、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師 日本の、源信僧都・源空聖人(法然上人)です。 したがって浄土真宗のおしえは、その七人の高僧による念仏の歴史と伝統の上にたてられたおしえであります。親鸞聖人はその出あいによっていただかれた信心の感動を「正信偈」(正信念仏偈)としてあらわされました。 ▲目次へ戻る |
■ 親鸞聖人のあゆみ |
誕生・出家 平安末期といえば、平氏一門から源氏一門へと政治権力が移ろうとする動乱の時代であります。そのころ京の都では源平二氏の戦いや、地震に大火事、飢きんや疫病などで、誰もが不安におののきながら生きねばならない時代状況でした。親鸞聖人はそのような時代に、京都の宇治に近い日野の里に誕生されました。1173年(承安3年)、今から約820年前のことでした。9歳にして出家され仏門に入り、20年間、比叡山できびしい修行と学問の日々を送られます。しかしその修行の場では、人として生きる意味を見い出せず、いよいよ疑問も深まりました。 そして聖人は比叡山を下りる決心をされ、聖徳太子の建立と伝えられる六角堂に、100日の間こもることを思い立たれたのです。ただひたすらに座り続けられた95日目のあかつきに、聖人は夢の中で救世菩薩の声を聞かれます。それは、生死の迷いをはなれ真に人として生きる道は、願生浄土(浄土を願う道)として、この現実の世界に開かれている、という夢告であったのです。 師との出あい 聖人は、京都の吉水ですでに願生浄土の道を 「念仏のおしえ」として説かれておられた、法然上人のもとをたずねる決心をされました。そして100日の間そのおしえを求めて身をはこばれたのです。 そこで聖人が聞きとられたのは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」というおしえであり、この法然上人との出あいは、その後の聖人の人生を決定する大きなできごとでした。聖人29歳のときでした。 その念仏のおしえに出あったよろこびを聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と書きとどめられています。 こうして親鸞聖人は、念仏者として歩み出されることになります。しかし、その歩みを力で拒もうとするものが待ちうけていたのです。 念仏批判 当時の仏教は、貴族・武士階級を中心として、国家や家の加持祈祷が主な内容でした。したがって、本来すべての人を救うと誓われた仏のおしえは、一般民衆とは無縁な存在となっていました。 その仏教が「念仏のおしえ」として広く民衆のこころをとらえ、多くの念仏者が生まれていきました。吉水教団といわれるものです。 ところが、そのようなおしえは仏教ではない、ただ社会の秩序を乱すものだと、仏教界から怒りの声が出はじめてきます。たしかに念仏のおしえをまちがってうけとり、悪事をはたらいても念仏申せばたすかるんだという、社会を不安におとしいれる人々がいたのも事実であるようでした。 しかし、仏教界としての怒りの本音は、きびしい修行と高い学問を身につけた者、つまり社会の上層部のものであるはずの仏教が、民衆に「念仏のおしえ」としてひろく受け入れられることへの不安といらだちであったのでしょう。それは仏教者として真の仏道をわきまえていないことを、あらわにした批判でもあったのです。 弾 圧 そのような怒りの増す中にありながら、念仏のおしえはさらに広まっていきます。とうとう仏教界は権力者の力をかりて、念仏者を弾圧する動きをみせてきました。 1204年(元久元年)、延暦寺の僧たちは念仏の禁止をうったえ、さらに翌年には、奈良の興福寺が法然上人と弟子たちの罪をかぞえあげ、処罰をするよう朝廷につよく迫りました。 そして、1207年(承元元年)2月、4人が死罪となり、8人が流罪に処せられたのでした。このとき法然上人は土佐の国(高知県)、親鸞聖人は越後の国(新潟県)へと流罪となったのです。ときに聖人35歳。これが「承元の法難」といわれるものであります。 民衆と共に 流罪の地、越後におもむかれた聖人は、荒れはてた自然ときびしい寒さ、そして自給自足のその日ぐらしを強いられます。そこではその日を生きのびるために手段をえらぶことのできない人々との出あいがありました。 そのような人々と生活を共にするうちに、念仏のおしえをこの人々にどう伝えていけばよいのかと、切実な思いが聖人のこころに深まっていったのでした。 聖人はその人々との出あいと生活をとおして、ご自身の身の事実を「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」とかたられ、さらに「愚禿釈親鸞」と名のられるようになりました。そのころに恵信尼と結婚されたといわれています。 関東へ 1211年(建暦元年)、流罪をとかれた法然上人は京都の東山大谷に帰られて、あくる年になくなられます。おなじく流罪をとかれた聖人は、今は師なき京都には帰らず、念仏のおしえを多くの人々に伝えるために、妻子とともに関東に向かわれたのでした。 聖人は42歳のときから20年間、関東の地に生きられます。その歩みは広く東北にまでおよびました。そして聖人のその歩みは多くの念仏者を生みだし、その人々によって各地に念仏者の集いが形成されていきました。 聖人とその念仏者たちは、おなじいのち、おなじ願いに生きる信心の行者として、書き友、御同朋として生きられました。 尊い生涯 関東から京都に帰られたのは1235年(文暦2年)ごろ、聖人63歳といわれています。京都での生活は主に著作活動にはげまれました。念仏批判、権力者による弾圧や、念仏禁止令がつぎつぎと出される状況にあって、未来におよぶ私たちひとりひとりのために、真に人が救われ、力強く生きていける道、すなわち仏教を「浄土の真宗」として明らかにされ、多くのものを書き遺されたのです。 聖人のそのお仕事は、「日」や「方角]の善し悪しにふりまわされ、「うらない」に自己の未来をゆだね、「霊」におびえる、私たち日本人の迷いのすがたを照らし出し、すべての人がともにひとしく、人間としての尊厳を獲得していく道を開かれたものでした。 聖人は激動する時代のまっただ中に身をおき、確かなおしえと出あい、そのおしえに生きられました。聖人の歩みはまさしく念仏者として、仏道を歩み続けられた尊いご生涯でした。 1262年(弘長2年)、親鸞聖人ご入滅。御歳90でありました。 親鸞聖人のおしえは、文字となり、ことばとなり、人となって生き続け、いま私たちにまでかたりかけられています。 ▲目次へ戻る |
■ 私たちの教団 |
○宗派名 京都の東本願寺(真宗本廟)を本山とする私たちの宗門の法規上の名称は、「真宗大谷派」です。「大谷」とは本願寺がもともとあったところの地名からつけられたものです。「浄土真宗」というのは、一宗派名ではなく、仏教のおしえを根本的にあらわされたことばであります。 ○本願寺 本願寺は京都東山の大谷に聖人の遺骨を改葬した廟堂にはじまります。その後1591年(天正19年)に京都西六条に再建され(現在の西本願寺)、さらにその11年後に京都東六条に別立されたのが東本願寺です。(現在の建物は明治28年に再建されたものです) ○教 区 私たちの教区は「九州教区」といいます。その中の「日豊エリア」は大分県全域と福岡県の一部で構成され、約300の寺院があります。その寺に私たちひとりひとりが門徒として所属しています。その門徒の浄財によって、寺・教区・本山が護持され、宗門として念仏の法灯が伝承されております。 ▲目次へ戻る |
■ お内仏と法名 |
お内仏 通称お仏壇といいますが、真宗では「お内仏」といいます。お内仏は浄土の世界を形にあらわしたもので、中心はご本尊です。朝夕の勤行(おつとめ)でご本尊に向かい合い、おしえのことばに日々出あっていきます。 お内仏に先祖の法名をおかけしますが、先祖は私たちにこの世の生をあたえてくださったと同時に、念仏をすすめてくださっています。そういう先祖の願いも聞きとりたいものです。 また、お内仏のお荘厳は、浄土をおかざりすることであります。おかざりとして供えなければならないもの、また供えてはいけないものもあります。お荘厳の仕方については宗派において決められていますので、そのことを念頭にいれて正しいお荘厳をこころがけるようにしましょう。 法 名 法名は「釈○○」とつけられます。「釈」とつけるのは、お釈迦さまのお弟子になるという意味です。お釈迦さま、つまり仏さまのおしえにうなずき、そのおしえを依りどころとして生きる名のりが法名であります。 ですから、法名は本来、生前に帰敬式(おかみそり)を受けて名のりますが、機会のなかった方は、葬儀に際し住職よりつけていただきます。 法名について字数の多少や、お金をたくさん出せばよい法名がつけられるとか、そういうことが話題にされる場合がありますが、そんなことはありません。ただ宗門には相続講制度があり、手続きをすれば本山から「院号」はいただけますが、法名そのものは「釈○○」と定められています。 法名の本来の意義は、仏法を聞く者の名のりであります。まわりで勝手な解釈をする声に迷わされたくないものです。 (「戒名」という言い方は、他宗において仏教の戒律にしたがった生き方をしていくときに授けていただく名前で、真宗では用いません。法名について何かおたずねになりたいことがあれば、住職に相談されるとよいでしょう。) ▲目次へ戻る |
■ 聞法の生活 |
真宗門徒である私たちは、すでに仏法を聴聞する生活が与えられております。私たちは自分ひとりの力を過信し、自分の思いをとおそうとすれば自己中心的になります。集団(組織-社会構造)の中で生きようとすれば、自分の意志を抑えられ、その中で流されてしまいがちになります。仏法を聴聞するということは、独断でもなく、何かに流されるでもなく、私どもの人生の確かな依りどころを常に確認していくことであるのです。それは親鸞聖人によって明らかにされた浄土真宗のおしえを聞かせていただくことをとおして、私たちに願い続けておられる、ご本尊の南無阿弥陀仏という仏さまの、こころにたち帰らせていただくことであります。 そのことが「念仏」ということであり、私たちはすでにそういうご縁に触れていることを大事にしたいものです。その「浄土の真宗」のおしえを、今日の私たちにまでに伝えてこられたのが、「門徒」として生きられた私どもの人生の先輩であり先祖であるのです。 今、私たちもそういう門徒として、与えられた人生を力強く生きる、念仏申す身となりたいものであります。 ▲目次へ戻る |